昨日は松戸神社の秋祭り。
朝方の雨も上がって、絶好の祭り日和でした。
威勢よく練り歩くお神輿行列を見てビックリ。
担ぎ手の中に金髪やアフロヘアーの方々が。
最近は各地で、見て楽しむだけで飽き足らず、積極的に参加したいという外国人が増えているとのこと。
「サンバ風の神輿ステップが楽しいし、お弁当や飲み物、手ぬぐいまでもらえて大満足」のようです。
前回ブログは、詩歌に詠まれた感動的な「母の愛」の話。
ならば「父の愛」も語らないと片手落ちかも。
「素敵な父親」を描いた文学作品と思いつつ、すぐ頭に浮かんだのは、太宰治の「桜桃」。
残念ながら、「慈愛に満ちた母親」とは対極に。
脳裏から離れない一節は、夫婦喧嘩で逃げてきた「女友達の家」で、桜桃を食う父親のモノローグ。
「私の家では、子供たちにぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など見たことも無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。(中略)
しかし父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供より親が大事」。
こんな親父は、一昔前の「極端なケース」なのでしょうか。
人生の「大切なこと」に眼を背け、自分勝手な自己弁護に逃げる「幼稚でひ弱な父親」。
今でもその辺りにいるような‥‥。
新川和江さんは、ある対談の中でこんな言い方を。
「本来、女は強いのよ。リタイアした男たちは、地上30センチぐらい足が浮き上がっている感じがします。でも老婦人たちは、どっしりと地に足をつけて生きている。地球上で最後まで生き残るのは女性だと、私は確信しているの。構造が大地と同じですから」。
I perfectly agree with you.
浮き草の如く生きる男たちは、どうあがいても勝てそうもありません。